歴史に学び、精神に活きる 〜住友金属鉱山の歴史〜
歴史に学び、精神に活きる
420年以上の歴史を持つ住友の銅事業。
その歴史のなかで幾度も大きな環境変化に見舞われてきましたが、変化を鋭敏に捉えて、新たな戦略・新たな組織・新たな事業を興して、着実な企業成長を遂げながら広く日本の社会発展に貢献してきました。
そして今、住友の源流事業を継ぐ私たち住友金属鉱山はあらためてこの歴史を学び、その歴史の中で培われた「住友の事業精神」に基づき、確実な前進を図っていきます。
その歴史のなかで幾度も大きな環境変化に見舞われてきましたが、変化を鋭敏に捉えて、新たな戦略・新たな組織・新たな事業を興して、着実な企業成長を遂げながら広く日本の社会発展に貢献してきました。
そして今、住友の源流事業を継ぐ私たち住友金属鉱山はあらためてこの歴史を学び、その歴史の中で培われた「住友の事業精神」に基づき、確実な前進を図っていきます。
1590年〜 銅製錬の始まり 別子銅山の稼業(江戸時代)
住友の銅事業は1590年、泉屋と称して、京都で銅吹きと銅細工を開業したことに始まります。泉屋では全国から集めた原料を製錬していましたが、このとき日本で初めて、南蛮吹きと称する銀・銅分離の技術を完成させました。この技術が開発される前は、銅が銀を含んだまま輸出され、その分だけ利益を失っていたのです。住友はこのように最先端の技術開発を行うことで大きな利益を上げて事業の基盤を固めていきました。
別子開坑
1690年、愛媛県の赤石山系の南斜面で、銅鉱石の大露頭が見つかりました。この銅山こそが、その後283年間にわたり操業を続け、住友の発展を大きく支えた「別子銅山」です。住友はこの別子銅山の開坑により、銅の製錬事業から資源事業へと軸足を移すことになります。
別子稼業の苦悩と打開
開坑後の別子銅山の経営は、決して順調ではありませんでした。別子銅山の産銅量は、開坑から8年目には1,521tに達しましたが、その後まもなく生産量が減少していきます。坑道が深くなり、坑内水の排水に悩まされ、製錬用の薪炭を遠くから運ぶため産銅コストも高くなりました。そこで新たな水抜きを開削し、山林を周期的に活用するなど稼業の安定化を図りました。
1860年頃〜 幕末・明治維新の危機 西洋技術の導入(近代化)
670年以上続いた武家社会が崩壊し全く新しい社会が作られようとするなかで、別子銅山もその激流に巻き込まれ存亡の危機に直面します。しかし住友は、その窮地を乗り越え新しい時代の幕を開きました。
別子銅山への経営集中
幕末からの動乱期、住友の事業はその渦中に巻き込まれるように、幾多の大きな問題に直面します。倉庫が差し押さえられ、さらには別子銅山の接収を受けるなど、危急存亡の危機に立たされます。そうしたなかで、当時の別子銅山の支配人である広瀬宰平(下記参照)は懸命な努力を持ってこの危機を乗りこえました。その後も、経営が極度に苦しくなるなかで、家中において別子銅山売却の動きが起きたことに反対し、諸施策を講じて別子銅山の回生を図りました。
マイニング技術の革新

明治期の別子
1874年には、生産能力の増強をめざしフランス人の鉱山技師ラロックを雇い入れ、西洋技術の導入を図ります。ラロックは欧米の採鉱・冶金学上の見地から別子銅山の稼行方法の改革点などについての目論見書を作成しました。また別子銅山では、1882年にダイナマイトでの掘削が採用され、1891年にはさく岩機を導入するなど、新技術の導入が行われました。さらに1890年から別子鉱山鉄道の敷設に着手しました。
洋式製錬の導入

第四通洞(昭和期)
製錬関係では、1884年、新居浜に洋式の銅製錬所を建設して試験操業を開始。1888年には設備を拡張して本格操業に移行しました。その後、別子鉱山鉄道が新居浜まで開通したことで、輸送能力が飛躍的に向上し、製錬所の処理量も大幅に増加しました。このような西洋技術の導入によって別子銅山は大きな技術革新を果たし、1897年の年間産銅量は、30年前と比べて約6倍にあたる3,500トンを記録しました。
広瀬宰平(1828~1914)と別子銅山
別子銅山の危機克服
広瀬は、幼少の頃から別子の山に住み、坑内へもたびたび入りながら、莫大な鉱脈の眠る宝の山であることを熟知していました。広瀬は、別子銅山の接収に訪れた土佐藩(高知県)の川田小一郎(のちの日本銀行総裁)に対して、「別子銅山は確かに幕府領であるが、住友家が独力で経営してきたものである。しかるに、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反することである」と訴えました。
広瀬の国益思想は、川田の心を動かし、両者の出願によって、新政府から正式に別子銅山の継続経営が許可されました。
別子銅山への事業集中
1871年、広瀬は新政府より生野鉱山の視察を命ぜられました。生野鉱山ではフランス人の御雇外国人・コワニエと出会い、黒色火薬を用いた近代的採鉱法を教わります。そこで広瀬は、別子銅山の再生には西洋技術の導入以外に途はないと確信しました。
また、別子銅山への事業集中を図るためには、不採算となっている事業を切り捨てる必要があり、広瀬は、伊豆金山視察のついでに東京に立ち寄り、中橋(中央区八重洲)両替店と浅草札差店の金融店部を閉鎖しました。
別子銅山の近代化
広瀬は、フランス人技師ラロックの「別子鉱山目論見書」を参考に、東延斜坑の開削、牛車道の着工などの採鉱・運搬の近代化を進めました。第一通洞の工事ではダイナマイトを導入し、着工から4年後には全長1021メートルの通洞をみごと貫通させています。
その後、還暦祝いに欧米諸国を巡遊した広瀬は、北米ロッキー山脈のコロラドセントラル鉱山で、断崖絶壁を縫うように走る山岳鉄道を見て、別子における鉄道の実用化を図りました。
・明治二十四年(1891)頃から、新居浜製錬所の生産量の急増に伴って、製錬所に近い新居浜、金子の二ヶ村を中心に亜硫酸ガスによる煙害が現れはじめた。(【資料2】第四表、金子村の米麦収穫高の経年変化を示したものが参考になる)
・明治二十六年(1893)九月、金子・新居浜・庄内・新須賀の四村(いずれも現・新居浜市)の農民代表は、稲や農産物の大被害を愛媛県に訴え、また新居浜村でも新居浜分店に被害原因の調査を求めたが、調査結果は、一種の虫害とされた。農民側が挙げた被害の実例は次のとおりである。
①一般耕作物の被害は大きく、大根の根がふとらず、そ葉類は生育しない。
②苗、葉に赤色はん紋を生じる。果樹は結実の減少を来し、ついに枯死する。
③松の葉が伸びにくく、葉の色は黄褐色に変わる。
④桑の葉が繁茂せず、養蚕も臭煙に襲われ不結果を生じる。
⑤呼吸器病が増加する。
⑥藁の目方が軽く、靭性を失って縄などに適しない。
⑦屋根瓦、漆喰、石垣などが赤変する。
⑧墓石に生えた苔がことごとく剥落する。
⑨降雨の際屋根の点滴が泉水に落ち、鯉や鮒などが死ぬ。
・明治二十六年(1893)九月、金子・新居浜・庄内・新須賀の四村(いずれも現・新居浜市)の農民代表は、稲や農産物の大被害を愛媛県に訴え、また新居浜村でも新居浜分店に被害原因の調査を求めたが、調査結果は、一種の虫害とされた。農民側が挙げた被害の実例は次のとおりである。
①一般耕作物の被害は大きく、大根の根がふとらず、そ葉類は生育しない。
②苗、葉に赤色はん紋を生じる。果樹は結実の減少を来し、ついに枯死する。
③松の葉が伸びにくく、葉の色は黄褐色に変わる。
④桑の葉が繁茂せず、養蚕も臭煙に襲われ不結果を生じる。
⑤呼吸器病が増加する。
⑥藁の目方が軽く、靭性を失って縄などに適しない。
⑦屋根瓦、漆喰、石垣などが赤変する。
⑧墓石に生えた苔がことごとく剥落する。
⑨降雨の際屋根の点滴が泉水に落ち、鯉や鮒などが死ぬ。
別子煙害問題は栃木県の足尾鉱毒問題とともに公害の原点とされ、また、住民運動が成果をおさめた例として「米百俵」とともに記憶されるべき出来事とされている。
1893年愛媛県新居浜で別子銅山からの銅精錬排ガスによると思われる大規模な水稲被害が発生し、4村(新居浜、金子、庄内、新須賀)農民代表が愛媛県に被害を訴え精錬所に損害賠償を要求。煙害の事実について結論が得られず補償問題は延期され、農民と精錬所との間で紛争が勃発した。
精錬所経営者である住友鉱業は関係官庁と学識経験者の意見を聞き、1904年に新居浜沖合約18kmの無人島「四阪島(美濃島、家ノ島、明神島、鼠島の4島からなる無人島)」に精錬所を移転。
しかし、操業開始後から瀬戸内海の気流により愛媛県越智、周桑、新居、宇摩4郡で麦・稲作に被害をもたらす煙害が発生。農民と精錬所の間で賠償金支払い、産銅量制限を含む厳しい協定が結ばれた。
住友鉱業はその後独自に硫黄酸化物対策の技術開発を進め、1929年、ペテルゼン式硫酸製造装置を導入し排ガス中の二酸化硫黄(SO2)の半量から硫酸を製造し、さらに1939年に硫黄酸化物をアンモニアで中和する技術(排煙脱硫技術の一つ)を導入した。
1890年頃〜 銅製錬所の移転 ニッケル事業開始
近代化を進めてきた日本は急速な発展を遂げていきます。別子銅山もその流れに沿うように好機と危機の両面に相対しながら前進を続けました。
製錬所の四阪島移転

明治期の四阪島製錬所
1888年、新居浜の銅製錬所の設備を拡充して本格操業に移行しました。その結果、製錬は別子銅山と新居浜の双方で行われるようになりました。しかし、製錬所が平野部の新居浜に移転してからは、亜硫酸ガスによる煙害が大きな問題に発展してしまいます。住友としても抜本的な対策を迫られるなかで、当時の別子支配人であった伊庭貞剛(のちの住友家二代目総理事)は、製錬所を陸地から離れた海上に移すことを決断し、瀬戸内海の四阪島に製錬所を移転させました。
精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる結果となった。被害は1939年(昭和14年)の硫煙処理装置の設置まで続いた。この時の補償金をもって越智郡は学校を設立、今日の愛媛県立今治南高等学校の前身である。
・明治四十一年には、煙害は従前よりいちだんと激しくなった。これは、この年に「煙害日和」(被害の多い時の気象、つまり、海陸各地の風向きが一致して風力が弱いときや静穏な時、日光が強くて気温が高いとき等のことをいう)が頻繁に続いたものと考えられる。前記四郡の麦作は減収になったばかりか、七、八月には亜硫酸ガスに襲われた稲の葉が一様に黄褐色の斑点を生じ、前年程度の結実さえも期待できなくなった。
別子銅山の閉山、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下、順次合理化が図られ、1976年(昭和51年)12月に溶鉱炉の火は消え、1977年(昭和52年)4月には一部の工場関係者を除いて島を離れ、小中学校も廃校となった。同じように瀬戸内の離島で大正以降三菱の銅精錬の島となった香川県直島と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、もとから集落の栄えていた直島と異なり、四阪島は1988年(昭和63年)以降人口ゼロの島となった。71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼるという。
・明治三十七年(1904)、四阪島に移転した溶鉱炉の試験運転を開始すると間もなく、対岸の宮窪村友浦から麦の葉に被害が出、翌三十八年に本操業を開始すると、越智・周桑両郡の各村から煙害の叫びがおこった。
・明治三十九、四十の両年には煙害の声はいっそう大きくなった。愛媛県、別子鉱業所がそれぞれ調査し、その結果、農業被害は煙害であることが確認された。被害地域は新居浜製錬所当時よりもはるかに広い範囲にわたり、四阪島を中心に越智・周桑・新居・宇摩四郡の農村・山林地帯まで拡大した。
・明治四十一年には、煙害は従前よりいちだんと激しくなった。これは、この年に「煙害日和」(被害の多い時の気象、つまり、海陸各地の風向きが一致して風力が弱いときや静穏な時、日光が強くて気温が高いとき等のことをいう)が頻繁に続いたものと考えられる。前記四郡の麦作は減収になったばかりか、七、八月には亜硫酸ガスに襲われた稲の葉が一様に黄褐色の斑点を生じ、前年程度の結実さえも期待できなくなった。
・他に、被害状態について、に次のような記載がある。
被害区域は三郡四町三八ヶ村(宇摩郡の被害地域はこれには含まず)に及び、被害を受けた農家戸数は三万余戸、田畑反別はおよそ一万二、三千町歩に達していた。四阪島は新居浜、今治からそれぞれ十八キロメートル離れているといっても、内海であったために、西よりの風を除くどの方向の風でも、どこかに被害が発生する。特に、春から夏の農作物育成期には北東よりの風が多く、それだけ被害を激化させることになった。農民たちが四年間に被った損害額は、米麦の被害だけで合計約三七万円になるとしている。一戸当りの被害額は一〇円強と少ないが、この地域一帯が愛媛県第一の穀倉地帯であることを考慮すれば、農民が物心両面に受けた打撃は決して小さくはなかった。農家煙害の被害は米麦のみならず、山林、果樹、そ菜等にも及ぶが、それらの被害は自給度の高い生活を営んでいる普通の農家にとって、きわめて重大な問題であったと考えられる。
被害区域は三郡四町三八ヶ村(宇摩郡の被害地域はこれには含まず)に及び、被害を受けた農家戸数は三万余戸、田畑反別はおよそ一万二、三千町歩に達していた。四阪島は新居浜、今治からそれぞれ十八キロメートル離れているといっても、内海であったために、西よりの風を除くどの方向の風でも、どこかに被害が発生する。特に、春から夏の農作物育成期には北東よりの風が多く、それだけ被害を激化させることになった。農民たちが四年間に被った損害額は、米麦の被害だけで合計約三七万円になるとしている。一戸当りの被害額は一〇円強と少ないが、この地域一帯が愛媛県第一の穀倉地帯であることを考慮すれば、農民が物心両面に受けた打撃は決して小さくはなかった。農家煙害の被害は米麦のみならず、山林、果樹、そ菜等にも及ぶが、それらの被害は自給度の高い生活を営んでいる普通の農家にとって、きわめて重大な問題であったと考えられる。
電錬工場の操業と粗鉱の購入
第一次世界大戦の終結後、経営が悪化する場面もありましたが「新居浜電錬工場の建設」「四阪島製錬所の大改造」等を進め、経営を回復軌道にのせることができました。また同時に、新技術の導入、設備の改良などが図られ、現在につながる技術革新も果たしています。また、それまでの産銅は、概ね全量が別子銅山産出の鉱石から生産されていましたが、以降は他社の鉱石や粗銅も処理して電気銅を生産するようになり、買鉱製錬へ向かって一歩踏み出すことになりました。
世界大戦下のニッケル事業開始

昭和初期のニッケル工場
1950年頃〜 電子事業の開始 別子閉山
第二次世界大戦後、急速な経済成長を続ける日本に対して、欧米の先進諸国は貿易や為替の自由化を求め、結果的に日本は貿易開放政策を進めます。国際競争力がさらに求められるなかで、住友金属鉱山は経営の抜本的な改革を推進しました。
電子事業への参入

高純度ゲルマニウム
1950年代以降、貿易の自由化により日本国内の金属販売価格は大幅に低下しました。これに対し、金属を加工し、付加価値をつけて販売することで収益を確保する方針が示されました。
1960年、電子材料の製造子会社として東京電子金属(株)を設立(のち1966年に本体に吸収)、予想される電子化時代に向け、非鉄金属を用いた電子材料の製造を開始しました。初期の製品はラジオ向けの高純度ゲルマニウムや、トランジスタ・IC 用合金であるアロイプリフォーム、IC 用リードフレームなどでした。金属の特性をいかした電子材料事業が当社の事業として加わったのです。
別子閉山と受け継ぐ精神
1973年3月、別子銅山は283年にわたる稼行の歴史を閉じました。この間の坑道延長は約700キロメートル、坑道は海面下1,000メートルの深部にまで達しており、産銅量は累計約65万t に上ります。別子銅山は、住友の諸事業の源流となるとともに、日本社会の発展にも貢献してきました。現在においても、別子銅山から受け継いだ精神は、住友金属鉱山の事業のなかで大きく活かされています。
東予製錬所の建設と操業開始

現在の東予工場
高度経済成長の下、年々増大する日本の銅需要に応え、かつ国際競争力を強化するため、1966年に産銅能力増強の基本計画が立案されました。そして、これまで住友の銅製錬を60年以上支えてきた四阪島製錬所を現状程度にとどめ、増強は新立地に求めることを決定しました。
そして1971年、東予製錬所が完成し生産を開始しました。操業開始に先立ち行われた火入式では、四阪島製錬所の銅溶鉱炉から採火した火が用いられました。さらに遡れば、四阪島の火は1904年に別子山中の焼鉱窯から運ばれたものでした。住友の銅製錬の火は、四阪島から東予へと絶えることなく受け継がれたのです。
貿易自由化と経営政策の転換
貿易自由化
1959年、GATT(関税と貿易に関する一般協定)総会が開催され、欧米の先進諸国は日本に対して、貿易・為替の自由化を強く迫りました。競争力に乏しい日本にとって貿易自由化は大きな影響を与えました。非鉄業界でも、自由化によって割安な銅・ニッケルが無制限に輸入された場合、勝負にならないことは明白であり、死活問題となりました。
住友金属鉱山は、貿易自由化が現実的なものとなるにあたり、経営方針を大きく転換しました。
国内鉱山の縮小
戦後、国内鉱山の開発を重点施策としてきましたが、これ以降国内鉱山の新規の探鉱を中止しました。同時に、国内の3つの鉱山を縮小し、2つの鉱山を閉山しました。
海外原料の確保
海外原料の購入は増加していましたが、さらに開発資金を投融資しての買鉱が増加しました。産出電気銅に占める海外原料の比率は、1956年には17%でしたが、その後年々増えて1968年には83%を超えるようになりました。
新規事業の拡大
これまで進められていた事業の他に、電子材料、貴金属触媒、伸銅などの事業を開始・拡充しました。
1970年頃〜 菱刈鉱山の操業 世界的な競争力の強化
高度経済成長期が終わり、日本経済はメーカーを中心にグローバル展開が活発化します。そうしたなかで住友金属鉱山は、国際的な競争基盤を確立すべく世界の舞台へ挑んでいきます。
菱刈鉱山の探鉱と操業
1973年に別子銅山が閉山、その後1979年に佐々連鉱山が閉山したことにより住友金属鉱山の300年におよぶ資源事業は終焉を迎えたかに見えました。
しかし1981年に鹿児島県で菱刈鉱山の鉱床を発見し、1985年から出鉱を開始、資源事業の歴史をつなぐことができました。菱刈鉱山は、現在に至るまで豊富な金含有率を誇り、収益の柱となるとともに、鉱山技術を継承する場としても重要な役割を担っています。
海外銅鉱山への投資

モレンシー銅鉱山
非鉄金属価格が低迷する1980年代、日本の産銅業界では海外から資源を購入し、製錬費で利益を上げる形が続いていました。しかしこうした中、住友金属鉱山は1986年にモレンシー銅鉱山(アメリカ合衆国)への投資を決定、資源確保への動きを開始しました。
そして非鉄金属市況が上昇を開始した1990年頃、世界的に鉱山の開発や増産が本格化しました。当社は1992年にはカンデラリア銅鉱山(チリ)、翌年にノースパークス銅鉱山(オーストラリア)へそれぞれ資本参加しました。
世界を凌駕する技術革新

コーラルベイニッケル社
2001年、フィリピン・パラワン島でHPAL法を用いたニッケル製錬設備の建設を開始しました。HPAL 法は1950年代にキューバで開発された技術ですが、生産効率をあげることが難しく、商業ベースで実用化した事例はありませんでした。
そうしたなかで住友金属鉱山は、長い金属製錬の歴史で培った技術をいかし、2005年の生産開始後は設計能力どおりに操業を行っています。